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李 膺(り よう、生年不明 - 169年)は、中国の後漢時代の官僚。字は元礼。潁川郡襄城県(河南省襄城県)の人。祖父の李脩(り しゅう)は、安帝の治世、太尉。父の李益(り えき)は趙国の相であった。子は李瓚。生まれつき礼法にこだわらず、亢然としていて人と交際しなかったという。ただ同郡の荀淑、陳寔らを師友とした。 == 生涯 == === 前期 === 始め孝廉に推薦されて司徒の胡広に招かれ、試験の成績が優秀であり、青州刺史にまで昇進した。彼の指揮下の太守・県令は彼の威厳、物事を見通す能力に畏れ、多くが辞任した。 その後、再度招かれ、漁陽太守、蜀郡太守に栄転するも、母親が高齢であるといい赴任しなかった。しばらくして、護烏桓校尉になった。鮮卑族がたびたび塞に進入したが、その都度、矢や石を掻い潜り撃退した。そのため鮮卑族は彼をひどく怖れた。 しかし、公務の事件で免職になり、綸糸に帰った。塾を開き教えたが、教えを請うものが常に千人あまりいた。後漢の荀爽は彼に面会しその折、彼の馭者を務め、家に帰って大喜びで「今日始めて李君の馭者になれたぞ」と言った。 永寿2年(156年)、鮮卑が再び雲中を侵略した。桓帝は李膺が有能なのを耳にして、召して度遼将軍に任じた。羌族、疏勒、亀茲ら西方の諸部族がたびたび侵略し、張掖、酒泉、雲中の諸郡の人民は苦しめられていた。膺が着くと、蛮族は攻められる前に連れ去った男女をすべて塞に送還した。これにより李膺の名は遠くまで響き渡る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李膺 (後漢)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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